非を認めず、真っすぐに謝れない人の心理について(西村大臣発言の件で思ったこと)
久しぶりの投稿ですー、雑記です。
西村大臣の発言
経済再生担当相の発言とその後の対応が話題だ。端的に言うと「緊急事態宣言下で、酒類の提供停止に応じない飲食店には 金融機関から圧力をかける」という旨の発言をし、炎上した。その後の謝罪の弁はTwitterにて
新型コロナ対策にご協力頂き感謝申し上げます。この度は感染拡大を抑えたいとの強い思いからではありますが、私の発言で混乱を招き、特に飲食店の皆様に不安を与えることになり、趣旨を十分に伝えられず反省しております。今後協力金の早期給付の仕組みを導入するなど支援に万全を期してまいります。 https://t.co/Fb4KgWFeML
— 西村やすとし #不要不急の外出自粛 NISHIMURA Yasutoshi (@nishy03) July 13, 2021
とのことだ。「趣旨を十分に伝えられず」ということは「認識は間違っていなかった」と言うことだ。 どこからどう聞いても、誤った認識による発言だったように思うが。
真っすぐに謝れない人たち
政治家や官僚、大企業の役員幹部など、謝罪シーンで真正面から謝罪できる人は少ない。「女性は話が長い」と発言した方の謝罪シーンも記憶に新しい。 こういった謝罪では、ほとんどの場合、「私の発言が誤解を招き」や「意図が伝わらなかった」などと、なぜか聞き手に落ち度があったかのように説明し、 形だけの謝罪をする。なぜ「私が間違っていた」と言えないのだろう。
誤りを認めることは、人生の終わり?
今の日本社会では一度自分の非を認めると、どこまでも追及され、二度と這い上がることは許されないのだろう。 学びなおす、やり直すチャンスを与えてもらえないのだ。1度ミスを犯した社員は出世の道が閉ざされる等の話はよく聞く。 そのような風潮の中で、正直に非を認め謝る人はいるだろうか。
しかし、もし誤っていたのならば、それを正直に認めてもらえないと、建設的な議論などできるはずがない。 つまり「何が間違っていて、どう直せばいいのか」が有耶無耶なままでは、社会や個人は改善や成長のチャンスを奪われてしまうのだ。
このような風潮でよいのだろうか
人や必ず間違え、失敗を犯す。そんな時に、もし仮に、正直に非を認め、反省し、すぐに改善できたならば、 その人は称賛され、称えられても良いと思う。チャンスをまた与えて良い。そんな社会はいつかやってくるだろうか。 それとも、これからも永遠に、不祥事のたびに胸糞の悪い謝罪会見を見せられ続けるのだろうか。